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10月 営団有楽町線車内

オオミズアオ(2)  Actias artemisi
分布:本州以南

地下鉄に一頭の蛾が乗っていた。

友人たちと呑んだ帰途である。
もはや終電に近い時刻だった。
シートに腰を下ろし、
ふと顔をあげて彼の存在に気がついた。
淡青色の大きな蛾が、
中吊り広告にじっと掴まりその翅を拡げている。
オオミズアオだ。

彼、というのは雄だと判ったからである。
Emperor mothの名で呼ばれる
ヤママユ蛾の仲間の雌雄は、
触角の形で容易に判別できる。
くし型のひげはオトコの証明だ。

以前に紹介した際は太陽光の下だった。
昼間なら蝶に見まがう本種ではあるが、
その本分はやはり夜の生物である。

学名のartemisi はギリシア神話に由来する。
月の女神アルテミスの名を冠した蛾。

むろんここは地下鉄の車内である。
彼の姿を照らし出しているのは月の光ではない。
しかし月光同様に暖かさのない無機質な人工光は、
どこか幽玄の気を漂わせるこの昆虫に相応しい。


夜行性でありながら灯火を求める蛾たちの行動は
一種パラドキシカルでもある。
あるものは炎の中に自ら飛び込み、
その身を焼き尽くす。
あるいは自らのはばたきで火を消し、
火盗蛾の名で呼ばれる。

熱を発しない蛍光灯なら焼かれることもない。
中吊りのオオミズアオはまんじりともせず
車内灯の光に浴している。
微動だにしないため、気づく乗客はいない。
ガラガラの深夜の電車である。
シートに倒れ掛かる人々に中吊りを見上げる元気はない。

駅を過ぎて人気が少なくなった頃、
立ち上がってそっとシャッターを切った。
そんな私の行動も誰の目に止まることもない。
街の喧騒の後の、
ただ疲れだけが支配する地下鉄の車内だった。


営団有楽町線は比較的最近の地下鉄である。
地下を走る軌道は、
出来た順にどんどん深くなってゆく。
銀座線や丸の内線といった古株は
ごく地表近くを通っているが、
有楽町線や半蔵門線、
南北線や大江戸線のホームに辿り着くには、
かなり地下深くへと階段を降りてゆかねばならない。

そして有楽町線はあまり「表へ出ない」路線でもある。
ことに西端は、
西武池袋線直通かもしくは
東武東上線直通で志木行でなければ地上に出ない。
反対側は終着の新木場がかろうじて地上の駅だ。

和光市からやってきたと思われるこの車両に、
どのようにして彼は乗り込んできたのだろうか。
灯りに導かれるままに階段を降り、
通路を辿ってきてしまったのか。


いくつかの駅を過ぎ、
人々は彼に気づかぬままに乗り降りしていった。
やがて私も席を立ち、
その横を通ってドアに向かった。

ホームに降りて振り返ると、
やはり同じ場所にオオミズアオの姿があった。
そして電車は彼を乗せたまま、
また瞑い窟の中へと吸い込まれていった。
だから、この美しい蛾がどこまで乗っていったのかは
判らない。

なんにせよ無賃乗車なわけだが。
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10月 営団有楽町線車内

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