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墨痕鮮やか、という表現が好きだ。 |
そろそろと引き上げれば、 流れた墨の図柄が紙の表面に転写されているだろう。 ご存知のように マーブリングもしくは墨流しと呼ばれる技法である。 スミナガシの名を持つ蝶がいることを知ったのは、 ずいぶん小さい頃だった。 タテハチョウの仲間であるこの虫は樹液を好む。 樹液を好むといえばカブトやクワガタ。 カブトやクワガタを好むといえば日本男児。 自然と身近な名前になっていたのである。 しかし我々が好むのはあくまで甲虫類であり、 他の連中は蝶だろうがハエだろうが 同じように興味はない。 ましてやスミナガシだ。 スミなんて習字で摺らされるうっとおしい黒い液体である。 しかも流しときた。 全体としての語感は「島流し」に類似しており、 ことのほか覚えがめでたくない。 加えてなぜか子供用の図鑑には、 スミナガシは幼虫の写真が多く掲載されていた。 この昆虫の子供はなかなか奇体な外見をしている。 それゆえに特別に紹介されていたわけだが、 要はイモムシである。 日本男児とてイモムシは別に好きではない。 私の場合は日野日出志「毒虫小僧」を読んでいたのが 悪かったと思う。 あと古賀新一「妖虫」。 そんなもんばかり読むな日高少年。 そういった訳で、私のスミナガシに対する印象は たいして素敵なものではなかった。 途方もなく魅力的な相手だと気づいたのは、 ずいぶん長じて後のことである。 雨上がりの山道に、 黒地に白の斑紋をちりばめた蝶が翅を休めていた。 地面から吸水しているらしい。 やがて吸い込んだ水を全身に行き渡らせるかのように ぐっと翅を両側に開いた。 そこに現れたのは、 複雑な色味を帯びた光沢を放つ見事な紋様であった。 スミナガシである。 そんなペイルトーンの翅を引き立てるかのように、 ストロー状の口吻は鮮やかな真紅に染められている。 心憎いワンポイントお洒落じゃあねえかオイ。 とんだ伊達男だぜコノヤロー。 当初は控え目に翅を閉じがちだった路上のスミナガシは、 やがて興が乗ってきたのか 次第にせわしなく開閉運動を始めた。 それはあたかも翅を閉じ開きする動力で 水を吸い上げているようにも見えた。 やけにシックな装いの給水ポンプではあった。 |
5月 東京都あきるの市 |
5月 東京都あきるの市 |